自分ではない誰かが作ったご飯が食べたい
家人は料理をしない。
食事は全部私が作る。
それはいい。
一緒に暮らす前から分かっていたことだ。
旅行に出た時も、家人は外食を嫌がるので、キッチン付きのホテルを探して、スーパーで食材を買ってきて作るか、コンビニで酒と総菜やツマミやサンドイッチとかで済ませたいという傾向がある。
例外は、旅先の美味そうな店か寿司屋か、ちょっと良いクラフトビールの店。これには興味を示す。
ベルギーやポルトガルなどでは、安くて美味い店が多々あったので、ホテルのキッチンで料理する回数も少なかった。
日本ではコンビニ比率が高め。
まぁ、アメリカ暮らしが長い我々としては、日本のコンビニなんて宝の山。御馳走だらけだけれど。
とまれ。要は、家人は身なりや作法や時間を気にせずに飲み食いして、食事のあとは秒で寝たいらしい。
まぁわかる。
長年一緒に居るわけで。もはや異論は無い。というか同意する。
ここ1年半以上、コロナと私の病気治療のおかげで、旅行にも出掛けていないので、食事はほぼ100%家で私が作った。例外として1、2度スシの持ち帰りをしたくらい。
家人はずっと家にいる(まさに「家人」)ので、私が仕事に出る日は食事を用意して出勤する。挟むだけのサンドイッチとか簡単なものだけど。
以前、家人が勤めに出ていた頃は、弁当を持たせていた流れで、家にいるようになっても、食事は出てくるものまたは用意してあるものだという既成事実既得権益のようになっている。
もはや異論は無い。
今更、何かをおっ始められて、私なりに暗闇でも迷わず動ける機能的にカスタマイズしたキッチンを乱されても困るという事情もある。
いちど、味噌漉しを予想外の場所に片付けられて、5分ちかく探したことがある。
色んな作業が同時進行しているキッチンで、5分のロスはクリティカルだ。
卵は固茹でになり硫黄臭を発しはじめ、茹で時間4分見当のインゲンはグダグダになり、酒蒸しのアサリは引き上げるタイミングが遅れ殻を開いたままカチカチになる。
それはさておき。
極私的には、偶にはそんなことを気にせず、座ったままで上げ膳据え膳、誰かの作った料理を最高のタイミングでゆっくり食べたい。
月に一度くらい。身なりやサーヴしにくるひとの作り笑いやチップが気になるレストランじゃなくて良い。キッチンを気にしなくてよい誰かの作った食事。
賄いのようなもの。
ああ、日本に帰れば、老母が何か作って出してくるだろうけれど、日本は遠い。あまりにも遠いし、今はそう簡単に入国させてもらえない。
と。
仕事をしてると昼にキッチンから差し入れがあった。
焼き春雨だな。
滋味深く美味かった。
これ。こういうのが良いのだ。自分ではこういう料理は作らないし。
多謝。