断・胃食道亭日乗。旧「宇宙日記。宇宙にはぜんぶある。」

(消防署のほうから来ました。) 食道胃接合部癌→術後肝転移(Stage IV)のヲッさんの暮らし。

入院14日目(退院前日)

朝の回診で、明日退院だな、と告げられる。言われてみれば、痛みと薬と栄養管理くらいはなんとか自宅で自力で出来ると思う。心配された合併症もなければ、レントゲンや血液検査の数字も全て異常がない。長かったような気がするけれど、最初の2、3日は頭が朦朧としていたし、そのあとも寝たり起きたり、あまり長時間物事を考えることが出来ずに日々を過ごしてきたので、長いこと病院に居たなという感じがない。2週間というのは人生最長記録だ。二十数年前、東京にいた頃に9日間手術入院としたことがあるけれどそれ以来だ。あぁあの夏は母校の甲子園初出場の試合を、病室の小さいテレビで独りで見ていたのだった。誰も見舞いになど来なかったな。誰にも知らせてなかったから当たり前だけれど。

外科助手が来て、ザックリと縦にヘソの上まで留めてあるステイプル、金属針を切り外していった。おおお。金属針。抜糸とも違うな。背中にも横一文字にあったと思うけど?と聞いたら、あぁそれは“glue”だから抜く必要はないよ。と言われる。グルーってことは糊だ。溶ける糸でさえない。今どきはそんな強力な糊もあるのだろう。確かに背中の切開部は、肩甲骨の下横一文字だから、可動範囲が大きい。痛みや治りを考えると糊、なんだろう。糊ピー。

朝8時半過ぎだけれど、酢豚が食べたい。日本の中華料理で断然好きなのは酢豚とニラレバと餃子である。食欲が出てきたのは良いことだ。こんど日本でぜひ食べよう。3種類もいっぺんは食べられないだろうけれど。

看護師が来て、胃のチューブに薬を入れるのを、自宅でやる練習だからやってみろ言われるのでやる。難しい事はない。容器に薬を入れて、針のない注射器で吸い取り、チューブ(胃瘻管)の所定の場所に差し込んで注入する。そのあと少しの精製水でフラッシュしておしまい。把握した。

病院内の薬局から電話があり、自宅で自分で注入する用の薬どっさり1ヶ月分$53だと言われる。え?入院するときに持ってくるなと言われたので、クレジットカードも現金も持っていないと言うと、じゃぁ自宅に請求書送るからと言われる。まぁ必要な薬を先回りで持たせてくれるのは手間が省けてありがたい。痛み止めだの血圧の薬や血栓予防の薬もあったかもしれない。4種類ほど暫くして病室にドサッと届けてくれた。チラッと見ると全部錠剤かカプセルだ。液体状のものを注入する練習までしていたのに話が違うな。ということでこれは看護師が来たので聞くと、砕いて飲む想定なのではないか、けれどケアチームに確認すると言って引き継いでくれた。

レントゲン室からまたお迎えの車椅子が来て長い廊下を押されてエレベーターに乗ってレントゲン室に行く。胸部を正面と横から1枚ずつ撮影されて返される。この2週間の入院中に毎晩やってくるのも含めて、何度X線を撮ったことだろうか。「息を吸って止める」てのが最初は痛くてしんどかった。今はまー大丈夫。車椅子に乗せられている患者と、ストレッチャーに乗せられている患者では、ストレッチャーの患者が重症扱いなので、すれ違いなどではストレッチャーが王様だ。ほかを蹴散らしていく。

病室に戻ると、別のオババがやってきて、自宅に明日から使う胃瘻tube feedingのスタンドとポンプと栄養液と精製水が届いてるかと聞かれる。家人が届いているというのでそう伝える。250mlのプロテインドリンクみたいなのが、144本届いたという。1ml=1Calのファーミュラなので、これで全部必要なエネルギーを賄おうとすれば、1,750〜2,000Calつまりこれを毎日7、8本胃瘻に流し込まなければならない計算になる。18日〜20日分の栄養だ。それと前後して、口から食べ始めるはずだから、まぁ妥当な量が届いたと言えよう。

今度は誰だったか、home care チームだったかデパートメントだったかから電話。明日退院するなり、自宅に訪問看護を派遣する手筈になっているという。がしかし1回の訪問に$35-$40のcopay一部本人負担金がかかるという。それはちょっと待てと思った。手術入院する前に、私は相当じっくりと保険のポリシーやカヴァーなどを読んで学習しているのだ。そしてその訪問看護は、年間50回まで保険で全てカヴァーされるという事も確信を持ってわかっていたので、いや私の保険ではcopay無しで全てカヴァーされる筈だと聞いた。すると電話の相手は、保険のカヴァーの範囲での訪問看護はunavailable 人繰りがつかないのか何らかの理由で利用不可と言うではないか。いやカヴァーの範囲でサーヴィスを提供出来ないのは私の問題ではなくて病院側の責任だと思う。毎回$35-$40の自己負担金はとても払えないと私が言うと、相手はcareチームと相談してまた連絡すると電話を切った。我ながら正論を主張したと思う。よる7時を過ぎても電話がないので、これはまた明日退院する時に確認しなければならない。痛み止めなどで頭がぼんやりしていると、こういう話は流してしまってついつい相手の言いなりになってしまうかもしれないけれど、油断してはいけないここはアメリカだったと思った。それからジョンズホプキンス大学の全米ランキングが自分的には4位から7位くらいまでに下がった。

日勤の看護師が挨拶に来た。14日間のうち、半分以上は世話になった青年だ。名前から推測するにベトナム系だろう。テキパキと素晴らしい動きをしていた。明日退院だろうけれど、自分は勤務ではないのでこれでお別れになる。貴方をヘルプ出来るのは喜びあった素早い回復を。という英語の定型挨拶みたいな話のあと、少し雑談になり、日本のことアメリカのことなどを話した。若いってのはやりたい事がたくさんあって良いなぁ。この青年の前途にたくさんの幸運があれば良いと願う。

夕暮れが近づいてきて、雷雨が通り過ぎていく。明日はさらばボルチモアだ。2週間後にはまた検診に来なければいけないようだけれど。

夜勤の看護師が来た。これまた馴染みになってしまったミャンマー系の男性でうれしくなってしまう。退院するのは嬉しいけれど、身動きも取れない状態にある時に優しくケアしてくれた人とのお別れは嬉しくないな。