断・胃食道亭日乗。旧「宇宙日記。宇宙にはぜんぶある。」

(消防署のほうから来ました。) 食道胃接合部癌→術後肝転移(Stage IV)のヲッさんの暮らし。

ファミリー

"Family" ファミリー(「家族」と訳していいと思う)の、人それぞれ認識している範囲って違うものだ。

Facebook Messengerで、

"How are you and your whole family doing?"

と、友人からテキストが来た。

彼女はアメリカで学位を取ったあと、しばらくニューヨーク州の山奥の大学で教えていたのだけれど、冬の寒さを嫌って、気候が良いオーストラリア東海岸の大学に職を得て教授をしているはず。

アメリカに来る前は、生まれ育ったインドで高等教育を受けているためか、綺麗なQueen's Englishを話す。

かっこよかった。

いちど、うちであり合わせの食事を出したときに、厚焼き玉子に感動し、やっつけで作ったスイカの皮の浅漬けを、美味いとボリボリ食べていた姿が懐かしい。

それはさておき。

私は、

Hi, xxx(彼女の名前), it's been a while! We and our falilies are doing well. How are you doing?

(おお、xxx 、久しぶり!我々と我々の家族は元気でやっている。どうしてる?

と返したあとで、自分が書いた"families"という複数形に引っかかった。

彼女の

"How are you and your whole family doing ?

の問いかける"family"と、私が返答した"families"の認識、範囲が違うのだろうな、と思っただ。

彼女の言う"familiy”は、「私と私の家人とその家族親戚一同」で「ひとつの"family"」という認識で、単数形の"family”しかも”whole faliliy"と問いかけてきている。

返した私は、さして考えもなく、「私の家族」と「私の家人の家族」とは別の「家族」であるという認識があるから、"families"と複数系で返答した。

私は、私の配偶者の家族を、「私の家族」とは認識していないということになる。

家人は法的にも配偶者であるし、日本に一時帰国すれば挨拶に行き、家人のご家族と食事くらいはする。偶にしか会わないけれど、関係は悪くない。(と思う。)

けれども「自分の家族」ではなくて、やはり「配偶者の家族」と思ってしまう。

 

インド人の彼女は、母親に姉妹が育てられ、学費は「伯父さん」が出してくれたそうである。むろん"family”のおじさんである。ほかの事情は詳しくは知らないが、彼が"family"と言うときは、かなり遠縁の --- 母の従妹の配偶者の兄あたり、までを指しているようなことが、話の端々から感じらる。

…冠婚葬祭ともなると「親類縁者だけで数百人」が集まったりするのだろうか。むかしの日本の「本家」 の冠婚葬祭みたいなものだろうか。知らんけど。

他方、わたくしは、父は私生児で、祖父にあたるひとの名前さえ知らないし、母は早くに両親を亡くしていて、私が生まれた時分には、母の姉妹と、母方の親戚にあたる人々がいたはずなのだが、母の姉妹以外ほとんど顔を合わせたことがない。世話になったといえば、その母親の姉妹に、時々小遣いやお年玉をもらっていたくらいである。

私が「家族」といわれたときに、「両親と兄弟」しか思い浮かばないのも、そんな生い立ちのせいだろう。

私からすればインド人の彼女の言う「母の従妹の配偶者の兄」は、あかの他人だ。一度や二度結婚式や葬式で会ったことがあったにせよ。

”Family" (家族)と認識する範囲は、どこまでなのか?

インド人の彼女のように、学費まで出してくれる伯父さんは「家族」なのだろう。一族からサポートを得て、出世して、義務のように一族に還元する。

それでもうひとつ思い出すことがある。

四半世紀も昔、東京で一緒に働いていた中国人の留学生も、親戚一同でお金を出し合って自分を日本に送りだしてくれたので、「絶対に成功して親戚にお金を返さなければならない」と、仕事を掛け持ちしたうえに猛勉強していた。

サポートは得られるが、還さなければならない。

(こんにちの中国の経済発展をみるに、さもありなん、と思う。)

 

日本でも、近代までは似たようなものだろう。

農業に限らず地域の産業でもインフラの整備でも、共同作業が必要だったせいで、「本家」「家族」(無条件で作業を手伝う人員)の範囲は、遠縁までに及んでいたことは想像に難くない。

こんにちでさえ、「嫁」とか「婿」とか「家制度」というのも「家族」を拡大して共栄を図るシステムとして、形は違えど、強固に維持されてつづけて多数派であるのは間違いない。

例外は、おもに都市部や郊外で資産や職能を持って、自立して生活ができる一部の人々だけだ。

私はどちらも持っていないが、都市部郊外で自分の給与収入だけで、なんとか生活していることはしている。けれどもそれが成り立たなくなれば、政府の世話になるか、どこかの「家族」のような制度に属するか、生きていく道はないように思える。

某日本国政府が、何があっても保持しようとしている「家族の絆」という仕組みは、そんな側面から見ると興味深く、いやワシ等は助けませんからね。と言っているに等しい。簡単にいうと、棄民政策なのだ。人口減を是としている撤退戦である。

政府に頼れないとなれば、「家族」であるけれど、もはや子供も生まれてこないので、血縁に頼り続けるのも持続性がない。 

そこで、血縁に拠らない「家族」を代替するものとしては、地縁の「隣組」みたいな制度、もしくは反社会勢力集団であるところの「〇〇一家」や「△△組」という団体になるのではないか。

イタリーのマフィアも「△△ファミリー」という。あの国は(コロナの対応を見れば一目瞭然)政府が弱く無能で、地縁や血縁に拠らないと、とうてい暮らせない社会である。

COVID-19のパンデミックで、世界の経済のシステムが大きくかわろうとしている。

誰もがどこかの家族に所属しないと生き残れない世界が来ているような気がする。

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菜の花が咲いていた。