断・胃食道亭日乗。旧「宇宙日記。宇宙にはぜんぶある。」

(消防署のほうから来ました。) 食道胃接合部癌→術後肝転移(Stage IV)のヲッさんの暮らし。

人生の意味、死、お墓

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(たぶん水仙。芽というか葉を出している。ちょっと早いんじゃない?)

 

晴れ。風。‐1℃。7時半起床。一晩中窓がカタカタ言ってた気がする。冬らしい気候になった。

血圧 120/76。朝食はおとといの鍋の残りで豆乳うどん、納豆、コーヒー。さいきんの食事は、糖質制限も何処へやら、という感じだけれど、体重が増えるわけでなし、体調も良いので、まぁ良しとしている。そのうち抗がん剤やなんかで食べられなくなったりする気もするので、医者は高栄養剤かなんかが処方箋で買えるので、むしろ体重を増やすかも、なんて言ってたけど。

 

人生の意味、死、お墓。

(一昨年、親父が亡くなったあとに、ぼんやり書いたものに少し加筆。)

死にゆくものよりも、残されたもののほうが辛く悲しいに違いない。そして面倒が残る。15年くらい前に、人生に意味など無い。全ては偶然で一瞬のことなのだ。という悟りのような諦念のような思いになったことがあった。亡くなる直前、末期にあって食事も取れず栄養を点滴され、足腰も立たず、ろくに喋れず、それでも人工透析のために週に3度、看護師さんやヘルパーさん4人がかりでベッドから降ろされ車椅子に乗せられていく親父の姿を見届けるに、これは果たして意味のある医療行為なのだろうかと思わずにいられなかったけれど、けれども、見舞いに日参して水を含ませ拭いて足をマッサージして、出来うる限りの世話する母親(と弟)にとっては、きっと意味のある行為なのだろうとも思ったのも事実。父親本人や、ゆくゆくは母親も入りたいという準備の出来つつあるお墓もそうで、わたくし個人的には、人は死ねばハイそれまでヨで、先祖だの、家だの仏壇だの墓にだの、死んでしまっているのに意味など無いと思うのだけれど、他方これまた生きて残った人間の拠り所となりうるという部分において意味を成すのかもしれないとも思う。そのお墓とて私には子供が無いし、兄に娘は居るものの葬式にも顔を出さなかったほど疎遠であるので、いづれ参るひとは居なくなるのは時間の問題だとおもうわけだけれど。仏壇も然り、Amazonで買って送り、母親は気に入ったようだけれど、母親亡き後はどうするんだろう。弟が拝むか。では弟なき後は?中古の仏壇なぞメルカリなんかで売れるものなのだろうか。斯様に人が死ぬというのは、残されたもの

(以上。)

死にゆくものよりも、残されたもののほうが辛く悲しく面倒にに違いない。

ひと月ほど前に食道がんと宣告されて、ひょっとして自分はあと1,2年くらいで死ぬかも、と真剣に考えたとき、思い残すことは多少あるけれど、死んでしまえばそれまでである。他方、残されるうちの人や私の親兄弟がやらなければならない作業に、心身の負担をかなりかけることになると思う。もちろん精検も終わっておらず、がんのステージも治療方針も決まっていないし、あと1,2年で死ぬつもりは全くないのだけれど、がんでなくても事故や事件で明日死ぬことだってあるわけで、それなりの身辺整理をしておこうと思い、少しずつ取り掛かっている。当面は必要のない持ち物の処分やら、ソーシャルセキュリティーやら個人年金の書類やら。残された人が不利にならないように分かるようにしておくとか。遺書というと何か大仰な気がするけれど、残されてしまうひとには大いに役に立つに違いない。死んでからは何もできないので、生きているうちに治療に加えて出来るのはそれくらいのことだし。

 

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今日は昼食を食べそびれて、16時くらいに移動の途中でマクド。ビッグマックとチキンナゲット10ピースで$5のdeal + ソーダが$1、税込みで$6.60。隣の席で、母親が小学校低学年くらいの娘の宿題をみている。娘は落ち着きがなく足をバタバタとさせながら、フレンチフライを遊ぶように食べている。

今日はプールは休み。